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こういう、貴重な古典ミステリの翻訳が出ることは、無条件で歓迎したいと思います。しかし、この本の訳文にはちょっと問題がありますね。 昨年、原書房から出た『証拠は眠る』は、実に四半世紀ぶりに翻訳されたソーンダイク博士ものの長編として、好事家を驚喜させました。シャーロック・ホームズ譚を連載して大人気を博した「ストランド」誌に対抗するため、「ピアスン」誌が登場させたのが、このジョン・イヴリン・ソーンダイク博士。当時のロンドンでは、ホームズの最大のライヴァルと目されていた名探偵です。科学者探偵の草分け的存在でもあり、その意味では『探偵ガリレオ』の遠いご先祖様であると言えるでしょう。 また、ソーンダイク博士の登場する短編『オスカー・ブロドスキー事件』は、「犯人が誰なのか、最初から読者に示されている」タイプの物語、いわゆる倒叙形式のミステリの元祖であり、こちらの意味では「刑事コロンボ」や「古畑任三郎」、「野呂盆六」などの祖先ということになります。というわけで、作者オースティン・フリーマンは、いろんな意味でミステリ史に大きな足跡を残した作家なのです。 コナン・ドイルが最後のホームズ譚である『ショスコム荘』を発表したのは、1927年のこと。この前年には、すでにアガサ・クリスティの『アクロイド殺し』が出版されていましたし、F・W・クロフツ、アントニイ・バークリー、ドロシー・L・セイヤーズらも活躍中でした。エラリイ・クイーンやディクスン・カーも、デビューの直前。つまり、ミステリの世界に世代交代が起きようとしていた時期にあたります。 フリーマンはドイルの3才下ですから、ほぼ同世代の人物なのですが、ドイルがホームズを書くのをやめたあとも、ソーンダイク博士の活躍は続いています。最後の長編が発表されたのは1942年で、もう黄金時代の名作群は出そろっていた時期でした。フリーマンは世代を超えて、長期に渡って作品を書き続けた作家なわけです。しかし、この時期のフリーマンの作品というのは、これまで翻訳されたことがありませんでした。ソーンダイク博士の登場する長編は全部で21作ありますが、昨年、1928年作の『証拠は眠る』が翻訳されるまでは、1926年の『ダーブレイの秘密』が、日本におけるフリーマンの最新作だったのです。 今回、長崎出版から出た『ペンローズ失踪事件』は、1936年に書かれた長編第17作。クイーンの国名シリーズや、カーの『三つの棺』などが出たあとの作品ということになります。この時期、フリーマンがどんなものを書いていたのか、非常に興味を持って読むことができました。が、結論から言えば、作風や物語の質には特に大きな変化はなく、展開もゆっくりしていて、現代の読者の目で見れば、まどろっこしい作品になっていると思います。 しかし、読む価値のない駄作かというと、そういうわけでもなくて、フリーマンとしては精一杯、それまでと違ったタイプの物語作りをしようとした形跡がうかがわれます。特徴として言えるのは、「客体として物語を読んでいる読者のほうが、ソーンダイク博士を含む登場人物たちより、多くの情報を知っている」にも関わらず、「いったい何が起きているのかが、なかなか掴めない」構成になっていることだと思います。叙述トリックこそ使っていないものの、ミステリにおけるフェアプレイを早くから提唱していたフリーマンとしては、ギリギリの線までチャレンジしようとした作品なのではないでしょうか。 さて、『ペンローズ失踪事件』は、そういう背景を抜きにしては語れない作品だと思うのですが、最初に述べたように、この翻訳には問題があります。それは、誤訳などではなくて、「訳者も担当編集者も、これまで国内で発表されたフリーマンの作品を、一切読んでいないのではないかと思われる」ということです。もし読んでいるのだとしたら、あまりにも変な表現が目に付くからです。訳者は美藤健哉という人で、論創社から出た『この男危険につき』の訳者でもあり、巻末のプロフィールを見ると出版社勤務のかたわら、翻訳を手がけているようです。 変な箇所はいくつもありますが、最も違和感があったのは、ミラー警視という登場人物のセリフです。ミラー警視は、ホームズ譚でいうところのレストレイド警部に相当する警察官で、ソーンダイク博士シリーズでは準レギュラー的な存在なのです。立場的には、全くの部外者であるホームズと違って、警察活動に公式に助言する機会もあるソーンダイク博士は、ミラー警視からはかなりの敬意を払われている存在のはず。なのに、この翻訳の中では、ミラー警視はソーンダイク博士を「お前」呼ばわりしているんです。 念のため、『ソーンダイク博士の事件簿』(創元推理文庫)、『ダーブレイの秘密』(ハヤカワ・ポケット・ミステリ)、『歌う白骨』(嶋中文庫)、『証拠は眠る』(原書房)の4冊を引っ張り出して確認してみました。いずれの訳でも、ミラー警視はソーンダイク博士に、敬語を使ってしゃべっています。レストレイド警部やホプキンズ警部が、ホームズに「お前はまだ何か知っているだろう」なんて話しかけるところを想像してみてください。おかしいと感じるはずです。去年出たばかりの『証拠は眠る』なら、容易に目を通すことができるんですから、これは訳者と編集者の怠慢と言わざるを得ません。 物語は、3章からなる短い第1部と、18章からなる第2部に分かれていて、第1部はロックハートという弁護士、第2部はワトスン役であるジャーヴィス博士の視点で語られます。ロックハートは、「パロット」という人物の経営する骨董品店で、ペンローズという奇妙な男と知り合います。ペンローズはありとあらゆる骨董品の収集家なのですが、集めるだけ集めたがらくた混じりのコレクションを分類も整理もせず、自宅の一室にメチャクチャな配列で並べて悦に入っているのです。しかも極端な秘密主義で、自分の真意を悟られまいとしてか、物の名前は必ず別の名称に言い換えて呼び、コレクションを記録しているカタログも、本人にしかわからないような暗号で記入しているのでした。 ロックハートは、なぜかこのペンローズに気に入られ、ある日、招待された彼の自宅で、誰にも見せたことがないという、貴重な宝石やコインのコレクションを見せられます。ロックハートは、これらの品々に保険がかけられていないと聞き、ペンローズに保険加入を提案するのですが、秘密主義のペンローズは、鑑定のために宝石やコインを他人の目に触れさせなければならないのが気に入らず、ロックハートの提案を聞き入れようとはしません。それから2週間後、ロックハートはパロットの骨董品店で再びペンローズと出会いますが、その日を最後に、ペンローズは失踪してしまいます。やがて、ペンローズが唯一にして最大の顧客であった骨董品店は、彼の失踪によって経営が立ちゆかなくなり、店を畳んでしまうのでした。 ここから第2部。ソーンダイク博士のもとを、ブロッドリブという事務弁護士が訪ねてきます。彼は、ペンローズの遺産管理人でもあるホリッジという男に依頼されて、ペンローズの行方を探って欲しいと頼みに来たのでした。たくさんの土地を所有している、ペンローズの父親が死にかけており、失踪しているペンローズが死亡しているのか、それとも存命でどこかに隠れているだけなのかによって、ホリッジが手にする遺産の額が大きく変わってくる、というのが依頼の理由だったのです。しかしペンローズの失踪には、ある自動車事故が絡んだ謎が隠されていたのでした……。 翻訳のおかしなところを別にすれば、他のソーンダイク博士物と同様、実証的かつ論理的に進んでいく本格ミステリとして楽しめます。ただ、事件の全貌がなかなか表れてこないので、派手な展開を求める読者には向かないでしょう。でも、ペンローズという極めて特異な人物の造型は面白く、この男に関する描写だけでも、一読の価値はあると思います。長崎出版は、次回配本としてマイケル・ギルバートの処女作『大聖堂の殺人』を予定しているようで、期待されるのですが、翻訳にはもっと注意深くなって欲しいものです。 ※この記事はブログ村 ミステリー・推理小説にエントリーしています。 |
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