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zoom RSS 『首無の如き祟るもの』 を読んで。

<<   作成日時 : 2007/10/10 23:54   >>

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これは私にとって、近年まれに見る、残念な本格ミステリでした。オールタイムベスト級の傑作になっていたかも知れなかったのに……。

物語の中で、真相と目されるものが何度もひっくり返ることを「二転三転」と言い、その「一転」ずつを「どんでん返し」と呼ぶ。ミステリを読む人間にとっては、ごく当たり前の形容です。でも、実際には「二転三転」どころか、「四転五転」、あるいは「六転七転」というような作品も存在します。なのに、言葉としては「二転三転」を使うのが普通で、それ以上のどんでん返しがあったとしても「四転五転」などとは言いません。なぜでしょうか。

それは、なんと言っても「三転」を超えるどんでん返しを盛り込むことが技術的に難しく、プロットが破綻しやすくなってしまうからだと思います。ところが、この『首無の如き祟るもの』は、細かな仕掛けを積み重ねることによって、破綻なくどんでん返しを続ける、怒濤の結末部を備えています。その部分だけに限定してみれば、妙な言い方ですが、キチンキチンとどんでん返しが行われているんです。しかし、私はこの結末部を楽しめませんでした。以下にその理由を述べていきますが、この本を未読で、かつ予断を持ちたくない方は、次の段落から先を読まないほうが良いかも知れません。

二転三転するどんでん返しとは、大ざっぱに言えば「真相はAだと結論づけられた。と思ったら実はBだった、と思ったら実はCだった……」というように、次々に別な真相が現れるか、または「真相はAだと結論づけられた。と思ったら実はBだった、と思ったらやっぱりAだった……」というふうに、発見された新事実によって真相がループするか、この2パターンの組み合わせか、ということになります。そして、どんでん返しが楽しめるものであるためには、一定の条件を満たす必要があります。

条件は主に2つ。その1つは「真相A」も「真相B」も「真相C」も、それぞれがある程度の説得力を持っていなければならない、ということ。そしてもう1つは、当たり前のことですが「真相A」と「真相B」、「真相B」と「真相C」が、内容的に大きく違ったものであることです。『首無の如き祟るもの』の場合、2つ目の条件はしっかり満たしているのですが、一部の「真相」に説得力がない、という致命的な欠陥を抱えていると思うのです。

……これ以上のことは、ネタバレなしには説明できませんので、当ブログのポリシーと、刊行からまだ数ヶ月の新作であることに鑑み、この稿ではツッこまず、いずれ暇なときにでも再読してから、改めて書いてみようと思います。というわけで、本筋とは関係ないことについて、現時点での感想をいくつか。まず、作者・三津田信三の意図について。『首無の如き祟るもの』は、本格ミステリとしてフェアに徹しようとしながら、ディクスン・カーの『火刑法廷』を思わせるようなリドルストーリーを書こうと狙った作品なのだろうと思います。また、どんでん返しの頻発する物語の常として、伏線は極めて細かく張り巡らされています。しかし、これらはバランスを誤ると、真相を見抜かれてしまうことにもつながります。

特にこの物語の場合、探偵役が言うように「謎の全ては、実はたった一つのある事実に気付きさえすれば、綺麗に解けてしまうのです」という構造を目指して書かれているので、その「たった一つのある事実」を覆い隠すための技巧と、真相を暴露したあとで示される伏線が、バランス良く書き込まれていなければなりません。普通は、「読者を欺く」ことに主眼を置くなら技巧のほうを、フェアプレイに徹するなら伏線のほうを重視することになりますが、二兎を一度に追うことも可能ではあるわけです。で、『首無の如き祟るもの』はどうかと言えば、微妙ですが伏線のほうが過剰で、おそらく「騙し」のほうに重きを置いている作者の狙いを、裏切ってしまっています。

というのも、私は早い段階で「たった一つのある事実」を推測してしまっていたため、物語中の前半部分の謎については、容易に解くことができたからです。しかし、後半部分で起きる事件の謎とその解決については、やや、というか人によっては大いにアンフェアだと感じるような一種のごまかしが1ヶ所あります。また、手がかりの提示についても、作者の勘違いによるものと思われる大きな計算ミスがあります。しかも、この計算ミス部分については、特に雑誌編集の経験がある人間にとってみれば、あまりに不自然と思われる箇所を含んでいるのです。

以上のような理由で、私は主として結末部に不満を感じながら読むことになってしまいました。しかし、そこに至るまでの過程は非常に面白かったですし、シリーズの前2作『厭魅の如き憑くもの』や『凶鳥の如き忌むもの』と比べると、文章が格段に読みやすくなっていて、作者・三津田信三の進境著しさを感じました。いちいち考え込まずに、物語の筋を追いかけるだけであれば、こんなに面白い小説はめったにないと言えます。でも、作中に「本格推理」という言葉がちりばめられているこの物語を読むとき、何も考えないでいる読者はいないでしょう。むしろ、考えることを強いているような書き方になっているとも言えます。

たとえば、煩雑な聞き込みや証言などの描写を省いて、捜査結果として得られたタイムテーブルのみをポンと提示してしまう手法は、パズラー指向以外の何ものでもありません。スッキリしていて読みやすい反面、読者の頭を整理させすぎる危険があります。もっとも、私の場合は逆に、「こんなに簡単にタイムテーブルを出してきているのだから、これを検討しても大した手がかりにはならないんだろう」と判断し、軽く読み飛ばしてしまいましたが(w)。

本書の最後には、いくつかの新聞記事めいたものと、架空の雑誌の目次と、参考文献の一覧表が添付されています。これらなど、作者のミステリ者らしい稚気を感じてニヤリとさせられるのですが、西東登氏の名前だけ「東西登」になっているのはシャレなんでしょうか、誤植なんでしょうか。それとも、西東氏のみ、遺族の了解が得られなかったんでしょうか。何か、隠された意図があるような気もしますが、今のところ思い当たりません。

『憑くもの』、『忌むもの』、『祟るもの』。次は『呪うもの』か『誅すもの』といった感じかな。『首無の如き祟るもの』については、細かいことにこだわらなければ、年間ベストを争えるぐらいの作品にはなっていると思います。一番面白かったのは、前作の「人間消失講義」に引き続き「首なし死体講義」みたいなものがあり、それがミスディレクションとしても機能している点でした。「講義」の使い方に関しては、カーの「密室講義」を超えているとも言えそうです。このシリーズは1作ごとに、次第にホラー味が薄れ、本格ミステリとしての構造性を高めてきていますから、次回作はさらに期待できそうですね。

※この記事はブログ村 ミステリー・推理小説にエントリーしています。

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